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the Star Festival

だれしも、自分が死んだらどうなるのかななんて考えたことは一度はあると思う。 それがエゴだとしても、やっぱりだれかが悲しんで泣いてくれたり、自分との記憶を思い起こして、大切に想ってくれたら、なんて考える。 『トリコロール白の愛』みたいに、「死んだ」って本気で嘘をついたら今どうなるんだろうな〜なんてものすごく真剣に考えたこともある。 さすがに行動にうつしてはいないけれど。(でもちょっとやってみたい気持ちはいまもちょっとあるかも) 今年、昔の知人が亡くなった。 久しぶりに会うひとたちと、隠しきれないやるせない気持ちをにじませながら他愛もない話をした。 葬儀が始まって、流れ始めた電子音楽と会場の空気のそぐわなさに不思議な感覚を抱いていたら、ご遺族の方からその人がつくった曲だという言葉があって、なんだか一瞬ほっとしてしまった。 ほっとしたという言葉は適切ではないのかな。 ただその人が生きていた時間が、そんな光景が、一瞬その場で浮かんで形作られて、そんな風だったか理解するほど近い関係ではないけれど、ああよかったなって思った。 自分が死んだ後、特別だれかに悲しんでほしいとかもないし、すぐ忘れ去られても構わないと今は思ってるけれど(いざとなったら真逆のこと言いそうだけど...)、その人が生んだものが、その人がいない場所でもつなげてくれるっていいな。 カレンダーアプリから、七夕の祖父の誕生日の通知がきて、 生きてたら86歳か〜なんてちょっとセンチメンタルになったりして、書きました。 AIで死んだ人と話せるようになったらいいな。 七夕は星が見えたらいいな。 七夕って英語で"the Star ...
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友だちについて⑤

今日は祖母の誕生日。去年の5月に祖母はあの世へ旅立った。 祖父も、もう6年前に他界したけれど、重度のおじいちゃんおばあちゃん子だったわたしは 自分の一部を喪失したようだった。 記帳係だったので、参列者それぞれに挨拶をした。 そのとき来ていたのは近所の人とか、親戚がほとんどだった。 祖父のときもそうだったけれど、老齢になってくると友だちってあんまりいないもんなんだなって思った。 すでにこの世にいない人もたくさんいるだろう。 それにしても一緒に暮らしていてもゴルフとか、年に一度か二度ある集まりのほかに友だちと会っているような場面が思い出せなかった。 でもそれが人望がないとか、哀れだとかそんなふうに思ったわけではない。 祖父母はそれぞれがかけがえのない親友であるようにわたしには見えていたから。 もちろんわたしの知らないいろんなことがあっただろうけど、少なくとも私が生まれてから見てきた祖父母はそう見えた。 『大人の友情』の中にも、夫婦に関するエピソードがいくつかある。 「茶呑み友達」というお話の中で、 確かに「愛」の物語には劇的なものが多い。相手のためにはどんな犠牲も惜しまない。財産や地位や名誉を投げ棄てる。時には命さえ惜しまない。相手がどれほどのものを捧げてくれるかによって、愛の程度が測られるとも言える。そしてこのような激しい愛は、恋愛の場合、特によく生じてくる。しかし、既に述べたように、このような激しい愛は長続きがしなかたり、案外なところで、もろさを露呈したりする。 それに比して、共にお茶を飲む、お喋りをする、共に仕事をするなどのことは、互いにそれほどの愛を感じていなくともすることは多い。しかし、そのような日常行為の中に積み重ねてゆかれた愛は、激しくはなくとも、深く強いのではなかろうか。   「境界を超える友情」の中では 夫婦の絆にはいろいろなものがある。しかし、それらのなかの重要なものとして、友情ということがあると思う。そしてそれは共に人生を戦い抜いてきた「戦友」として感じられることもあるだろう。   結婚したこともないやつがなにわかったようにって思う人もいるだろうし、実際結婚なんてことは私にはちんぷんかんぷんだけど、 一番側にいる人が、こんなふうに感じられたらきっと幸せだろうなーと思う。 その一方で自分が結婚しなかったり、結婚したとしてもうまくいかなかったりしたとき、自分にとって「友だち」という存在とどう付き合い、位置付けていくんだろうと自分のお葬式の場面を想像するとなんだか一抹の不安も感じるけど、汗 「大人の友情」とはなんなのか、考え続けながら人との出会いや別れを経験していきたいなと思う。 この本の最後で 友情とはなんぞやと訊かれると、今でもはっきりとは答えられない感じがするが、あらゆる人間関係の基盤としてそれはあり、人間の生き方を豊かにしてくれるもの、と言うことができるであろう。 科学技術が発展し、われわれは極めて快適で便利な生活をしているが、下手をすると、何でも自分の思いのままに支配し、操作できると錯覚し、その結果、大変な孤独や閉塞感などに悩まされることになる。 ぎすぎすした人間関係に潤いを与えてくれる友情ということが、現在において極めて重要になってくるのも当然である。そして、友と友を結ぶ存在としての「たましい」などということに、少しでも想いを致すことによって、現代人の生活はもっと豊かで、幸福なものとなるのではなかろうか。   河合隼雄先生の言葉は、とてもやさしくあたたかくて押し付けがましくないのに、鋭い眼差しにはっとさせられる。 もしご存命でいらっしゃったら、なんとしてでも一度河合隼雄先生とお会いして話してみたかったな。 落ち込んだり、人生に挫折したり、人間不信になったり、、 とにかくどんな状態にも効果テキメンなので、ぜひたくさんある著作の中から自分にぴったりの一冊を探してみてください。   というわけで最初の自分自身が発した問いに回答が出せたのかは微妙なところですが、あんまり無理せず、大事な友人と無駄なことを一緒にしながら、互いに支え合い、人生を共有していけたらいいなと思います。 というわけで更新も内容も散漫としてしまいましたが、長らく続いた『友だちについて』シリーズ全5回はこれにて完結! ここまで読んでくださり、ありがとうございましたー!!   追伸、なんだかブログむちゃくちゃ重いですね。ごめんなさい。 サーバー容量あげるべきなのか、、それともわたしの設定のなにかがおかしいのか、、   ...
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映画オールタイムベストテン

今日下北沢のB&Bという本屋さんで開催された 「あなたらしい映画の見方をさぐる三宅塾」に参加してきました。 スクリプトドクター、脚本家で『スクリプトドクターの脚本教室』の著書である 三宅隆太さんの新刊『これ、なんで劇場公開しなかったんですか?』刊行記念のイベント。 Amazon『これ、なんで劇場公開しなかったんですか?: スクリプトドクターが教える未公開映画の愉しみ方』 映画美学校時代に三宅さんは脚本コースで講師をしていらっしゃってときどきロビーでお話ししていたりしていたのですが、『ヴェルニ』の脚本の改稿でどうにもこうにもいかなくなったときに、フィクションコースだったわたしは直接の生徒でなかったにも関わらずご相談に乗っていただいたことがありました。 自分の内面に迫っていく道筋で泣きそうになるほど胸が震えたり、逆にちょっと苦しくもなったり、お話の内容もだけどその濃密な空間は今でも強く印象に残っています。 最近なかなか改稿に手がつけられなくてどうにかしたい!と思って読んだ『スクリプトドクターの脚本教室』。 シド・フィールドとかいろんな脚本術の本を読んでもすっきりしなかったことが、まさにこの本に書かれていた、、!(気になる人はぜひご購入を!) 三宅さんのお話を久しぶりにお聞きしたいなと思って直近にあったのが今回のイベント。 「映画の見方」なんて自由でしょ?って思うかもしれないけれど、「正しい映画の見方」的なマニュアル論ではなく、それぞれの映画の意図を汲めてるかという視点からのまったく押し付けがましくない、むしろ自分の内面に問いかけるようなお話。 たとえば最近観た『La La Land』にまったくノレなかったり、逆に自分がもう死ぬほど好き!っていう映画をあっさり一言で全否定されてしまったり、たまらなく感動したんだけれど、どこにそんなに自分が感動したのかがわからなかったり… 改めて考えてなかったけど、「映画の見方」について問われる場面って日々遭遇しているなー。 「自分は何故、あの映画が好きなのか?」 自分の感じ方に正直になりながら向き合うための方法として三宅さんが提案していたのが 「映画オールタイムベスト10」 を書いてみること。 ピックアップのポイントは 「無人島に持っていくならどれ?」 無人島に行ったら、もちろんスクリーンもPCも電気もない! それでもそばにあれば幸せ!そんな10本。 そこで自分なりに考えてみました。大好きな作品は数え切れないくらいたくさんある。 でも自分の人生になくてはならない映画、愛してやまない映画はなんだろう。 思い直して変更するかもしれないけれど、今思うのはこの10本! ジャージャンッ! 1. 『トリコロール 青の愛』 (Trois Couleurs: Bleu)/監督:クシシュトフ・キェシロフスキ(Krzysztof Kieślowski) 2. 『奇跡の海』 (Breaking the Waves)/監督:ラース・フォン・トリアー(Lars von Trier) 3. 『ベティの小さな秘密』 (Je M'appelle Elisabeth)/監督:ジャン=ピエール・アメリス(Jean-Pierre Ameris) 4. 『アデル、ブルーは熱い色』 ( La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2)/監督:アブデラティフ・ケシシュ(Abdellatif Kechiche) 5. 『ポンヌフの恋人』 (Les Amants ...
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友だちについて④

数年前に、結婚した友人と話していたときに、 「私にはスピーチ頼むなら絶対この人!って思い浮かばないなー」って言ったときに 「うちもそんなもんだったよー」って答えが返ってきた。 結婚式ではもらい涙必至な感動のスピーチだったんだけど、後から聞いてみると、一番長い付き合いではあるし親友だけど、大人になると合わないところも大きく出てきて、なんでも言い合うという関係ではないらしい。 大人ってむずかしい。 大人になっても「親友がいる」って疑いもなく言える人ってどのくらいいるのかな。 親友ってなんだろう、と考えたとき、わたしがぱっと思い浮かべるのは 海外ドラマの『FRIENDS』と『SEX and the CITY』のイメージです。 Cosmopolitan.uk By Claire Hodgson HBO Sex and the City Episodes 今さらSATC? FRIENDS!?って思うかもしれないけど、いろんな海外ドラマに手を出しても、何度でも繰り返し観てしまうのはこの2作品だけ。 全シーズン10回以上観てもまったく飽きず、きっとこれからも何度となく観続けるんだろう。 ひとりでごはんを食べるとき、疲れ果てて落ち込んでいるとき、映画やテレビなんて観れないようなときだって あたりまえに再生ボタンを押してしまう。 再生デッキの横に鎮座しているボックスはまるで家族の一員のような温もりすら感じる存在感。 『FRIENDS』は1993-2004(Season 1-10) 『SEX and the CITY』が1998-2004 (Season 1-6, Movie 1-2) と同時期のドラマ。 海外も日本も90年代って本当にドラマの黄金期、、、!! どちらも本当に素晴らしい作品だけど、なぜこの作品がここまで憧れをもたれたのかって、恋愛やキャリア、ニューヨークでの華やかな生活はもちろんあるけど、一番はその「友情」なんじゃないかと思っている。 毎日のように会ったり連絡とるのは当たり前。 夕食はもちろん、朝食、ランチ、買い物……当たり前に一緒に行動して、約束なんかしてなくてもそれぞれの家に行って一緒にテレビを見たり、馴染みのカフェでだべったりする。 疑問が湧いたり、幽霊が見えたり、寂しいと思ったら深夜であろうと電話しちゃったり、そんなとき友だちがタクシーで家にかけつけてくれたりする。 うっ………うらやましい……!!!! 大人になると、気軽に会おうって言えなかったり、寂しくて話したい夜も電話するのは憚られたり、 わたしたちはいつのまにか「友だち」間の距離を少しずつ遠ざけるようになっていく。 恋愛でもそうだけど、「自立した」とか「依存していない」ということを 大人であることの最低条件であるかのように、求められる。 しかし『FRIENDS』『SEX and the CITY』の憧れるポイントはまさに「依存できる」友だちがいることだと思う。 ここでようやく、今回のテーマである文化庁長官もつとめられた臨床心理学者の河合隼雄先生の著作、『大人の友情』の一節をご紹介。 人間として一人立ちしているということは、孤立しているのではない。ずうっと以前は、アメリカの心理学で、依存と自立を対立的に捉え、依存が少ないほど自立していると考えるような単純なことをしていたが、1960年頃より、自立している人は、適切な依存ができてそのことをよく認識している人である、と考えるようになった。このことは、あらゆる人間関係において言えることだが、友人関係の場合もこのとおりで、違いに依存したりされたりしつつ、そのことの認識の深さによって、その自立性も高まるだろう。 一人立ちしているからと言って、いつでも、誰とも一心同体などと感じたことはない、というのは淋しすぎる。「一心同体」と呼びたいような感情を友人と分かち合う素晴らしさを味わいつつ、だからと言って、常に一心同体であると考えるほど、それに溺れ切らないというのがいいのではないだろうか。 この2作どちらも、ほとんどのメンバーが大人になってから出会っていて、それぞれキャリアや恋人、結婚、子供というステージを自立して歩み、 それぞれの幸せを掴んで行く。 それは当たり前に依存できる友だちがいるからこそなんじゃないかなと。 男とデートしてひどい目に遭っても、仕事クビになっても、親が死んじゃっても、当たり前に側にいてくれる友だち。 SATCで “Maybe ...
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友だちについて③

前回からの続き。 アイキャッチ画像とか、ブログ内での画像とかいろいろ見づらくてごめんなさい、、、!! なんとか調整しようと思っていますが、少し時間かかるのでしんぼうして読んでもらえたらありがたいです、、、! できればPCで、スマホの場合は縦横スクロールすればなんとか見れるのでしばらく自力でよろしくお願いしますq:  しかし自分の過去を遡るっていうのも慣れないとなかなか難しいもんだなあ。 昨年から子どもが主人公の脚本を書いていたので、自分の幼少期を振り返り、どんなことがあって、どんなふうに見えて、どんな気持ちになったか、細かく思い出すという作業を重ねていました。 それはなかなかに苦しくて、毎晩殺されたり殺したりという悪夢を見続けた期間も。。。 もちろん楽しかった思い出もたくさんあるけど、そんな記憶もセンチメンタルな色合いを持って思い出されたり、 幼少期って思い出そうとするとわたしにとってはなんだか胸がズキズキすることのほうが多いです。 脚本の内容的なものもあるんだろうけど。  その脚本を一応(これからも改稿作業は続くので……)書き終えた直後くらいに、『ヴェルニ』で主演のえり役として出演していただいた田村愛さんとふたりでお茶をしながらお話する機会がありました! 愛さんは数年前にご結婚された後、"鳥本愛"さんとしてコーチングの活動もしているのですが... ブログ http://ameblo.jp/kira-ring710/  これまでは作品を通してのお話はしても、コーチングの活動をスタートされてからゆっくりふたりきりで個人的なお話をする機会ははじめてでした。 コーチングを受けたわけではなくお茶しながらお互いのことを話しただけなんだけど、全力で受け入れてもらえてる……!!というふだんなかなか味わうことのできないような感覚でお話をすることができて、自分が目を背けてきたコンプレックスに気付いたり、血流もよくなったんじゃないか……!?と感じるくらいの(笑)短い時間でたくさんの発見がありました。  なかなか周囲にはそんなことできる人いないかもしれないですが、一度足を止めて、人と対話して自分を幼少期からさかのぼって見つめるという機会をつくるのもおすすめです。  そうやって振り返ってみても、恋愛はわかりやすくあーなってこーなってってあるけど、友だちって終わり方もだいたいは環境の変化や、なんとなーく時とともにフェードアウトしていくことが多いからあんまりはっきり思い出せなかったりして。 高校生になって、髪染めてピアス開けて、「パンツ見せたいの!?」って怒られるくらいスカート短くして、念願だった軽音楽部に入って、成績なんて気にしなくなったせいか、中学のときよりは無理しなくなって、いじられるのは変わらずだったけど、たくさん友だちができた。 何時間でもバカみたいにしゃべって、失恋したら一緒に泣いたり、仲良い子が病んじゃったら自分も病んじゃったり、今は笑い話だけどこっぴどい目に一緒に遭ったり、、、学校内でもバイト先でもなんだか友だちってものに全身全霊をかけていた気がするなあ。  さすがに20代も後半になってくると昔よりも気をつかう関係にはなってきてるけど、今もなんだかんだときどき会って、これからも続いていったらいいなーと思うのは、たぶん高校時代の短いようで長かった時間の中で、無駄なことを一緒にして、無駄なこと話して、バカみたいに泣いたり笑ったりした時間があったからなんだろうな。 それがわたしには高校時代だったけど、幼少期の人もいれば、小・中学校の人もいるのは自分にフィットするタイミングみたいなものが人それぞれちがうということなのかな。  大学時代も数は少ないけど友だちはできて、今でもときどきごはん行ったり、高校時代とはちがう温度で、どっちがいいとかいうわけでもなく付き合えているのかなーという感覚がある。 特に寮で一緒に暮らした友だちに対しては、今考えるとぞっとするくらいの自己中な振る舞いしてたにも関わらず、いいことも悪いことも今でも全部受け入れてくれて、その子にはちょっと口にするのも憚られるような出来事も恥ずかしがらずに言えたりする。 映画美学校時代の同期たちはどちらかというと「仲間!」という意識が強くて、「俺たちは仲間であって、友だちとはちょっと違う」なんて話をお酒飲みながらだれかが語り出したりする。 バイト仲間や先輩とは今でもときどき連絡取り合ったり、映画を手伝ってもらったりすることもある。 その人に対してじゃないとこうは話せないって内容とか、空気もある。 そのどこからどこまでが友だちで、どこからどこまでが仲間で、知り合いなのかなんて線引きはほんとうに難しいことだと思う。 なにからなにまで話してなきゃ友だちじゃないとか、 何ヶ月に一回会ってなきゃ友だちじゃないとかそんなことはないわけで、 人生のなかのそれぞれのタイミングや波長で、距離が近づいたり、離れたりする。 ときどき聞くのが 「社会人になって、お互いにメリットないとわざわざ人に会おうとは思わない」 という言葉。正直わたしも思うことはよくある。 人によってその「メリット」という言葉の響きはちがって聞こえる。 わたしにとっては「お金」とか「地位」とかではなくて、たがいに違いがあってもそこを乗り越えて尊重しあえるかとか、ある程度まで正直になれて、そこで共有できるものが「メリット」なのかなーなんて考えている。 もちろんそうじゃなくて本当にわかりやすいメリットがあるから人と会う機会もたくさんある。 仕事関係とか、この人面白そうだなとか、繋がっとくとあとあといいかなーとか。 でもそれは友だちじゃない。少なくともそう思って会っている間には。 本の中でこんな言葉がある。 「友だちというものはお金になるわけでもなく、社会的地位向上に役立つものでもない。もしそのように友人を利用したら、 それは友情とは別のものである。結果として友人があたえてくれるさまざまな目に見えるもの見えないものがあったとしても、決してそれが目的ではない。」 ときどき自分に自信がなくなったとき、「あーでも自分にはこんなにいい友だちいるから捨てたもんじゃないな」って考える。 自己中でどうしようもない人間だけど、でも見放さずに会ってくれたり長電話付き合ってくれたりして、 いつか自分がもっと周りの人にいいこと、いいものを与えられる人間になれたらいいなーって思うけど、 この先つまずいたり、とっちらかったりして迷惑しかかけられなくても、友だちだって言ってくれる人がそばにいてくれる人間でいないとだめだなーとも思う。  「あんまり大切に思っていなかった」友だちがけがをして入院したとき、絶対に死なないで。と涙があふれてきたことに対して佐野さんはこう語っている。 「この人は、私のばかなところ、だめなところ、いやなところ、くだらないところを引き受けてくれていたのだ。この人がいなかったら、私のいやなところ、くだらないところは行き場を失って、私の中にあふれ返って生きてはいけなかったのだ。立派な尊敬にあたいする友人だけを持っていたら、私はなんと貧しい土に生きている生き物だっただろう。二人で過ごしたおびただしい無駄な時の流れ、その無駄を吸い上げて、私たちは生きてきた。」 名文.........!!!!!  友だちとはなにか、その定義は難しいけど考えさせられる一文。  というわけでまとまってないかもしれないけど、佐野洋子さんの『友だちは無駄である』とそれにまつわる考えあれこれに対してはこの名文でしめたいと思います。  気になった方はぜひぽちってみてください。 https://www.amazon.co.jp/友だちは無駄である-ちくま文庫-佐野-洋子/dp/4480423095  『友だちについて』、終わりか?って思ったあなた、残念でした。まだ続きます。  次回は河合隼雄先生の『大人の友情』(朝日文庫・2008)をテーマに。 2冊交えようかとも思ったのですが、ブログ力ゼロの今そんなことすると収集つかなくなるかなと思ったので、ちょっとかぶったり、戻ってみたりする可能性は大だけど、最初いろいろ友だちってなんだよ!!って思った時期のことを回収しつつ、「大人の友情」に焦点をあてて考えてみようと思います。  いやーしかしブログって勉強になるね。今は時間かかり過ぎたわりに大したこと書けてないけど、 もっとおもしろく書けるように精進します......!!実践あるのみ!!!  目指すは『JUNO』の脚本家でアカデミー賞脚本賞受賞のDiablo ...
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友だちについて②

前回からのつづき。 佐野洋子『友だちは無駄である』(ちくま文庫・1988年) 佐野洋子(1938-2010)さんは『100万回生きたねこ』で有名な絵本作家、作家、エッセイスト。 Amazon 『100万回生きたねこ』佐野洋子 この本は佐野洋子に対し「友だち」をテーマに谷川俊太郎がインタビューをするという対談形式がメインを中心に進められている。 谷川俊太郎と結婚してたのが1990〜1996年だから執筆当時はふたりがお付き合いしてたときなのかな〜。 基本的には佐野洋子のお話がメインだけど、ときどき谷川俊太郎のエピソードも交えていて、心地のいい対談がつづく。 最初にこの本を「これあげる」って先輩から渡されたときは、「友だちは無駄である」という題名からして、その先輩も、この作者も、タモリさんみたいに「友だちなんていらない」って姿勢なのかなって思った。 でも内容は180度違ってた。前回紹介した背表紙の言葉。 「友だちというものは無駄な時をともについやすものなのだ。 何もしゃべることなぞなく、ただ石段にすわって、 風に吹かれて何時間もボーっとしたことのある友だち。 失恋した友だちにただふとんをかぶせる事以外何も出来なかった日。 中身が泣いているふとんのそばで、わたしはかつおぶしをかいていた」。 「無駄だから友だちはいらない」のではなく「無駄だからこそ友だちなのだ」という本なのだ。 「いちばんはじめに、だれかをお友だちと思ったとき」まで遡り、兄弟姉妹に対して、幼少期、小学校、中学校、高校、浪人時代、大学、社会人、そして子供が生まれてから現在についての「友だち」についてのエピソードをざっくばらんに語っている。 自分はどうだったかなーと、記憶を遡ってみた。 生まれてから幼稚園までは特に友だちっていう意識なんてたぶんぜんぜんなかった。 同じ団地に住んでた子や、なんとなく幼稚園で一緒だった子と遊んでいたような気がするけどほとんど記憶にない。 兄や妹と遊ぶことが圧倒的に多かったけど「友だち」とは思ったことがなかったから、 記憶にあるいちばん最初の「友だち」は祖父母の家にいた猫たちだったんだと思う。 どうしても仲良くなりたくて、触り方、近づき方の研究を重ねたりして、楽しいことや悲しいことを共有していたのは、いつも猫たちだった。 人間でと条件をつけるなら、いちばん最初によく覚えている友だちは、小学1、2年生のときに一緒にいたみっちゃん。 大好きで、学校も放課後でもいつもふたりで一緒にいた。 ある日それをやっかんだある女の子が、先生に文句を言った 。 そしたら先生は「入れてあげなさい」ってわたしとみっちゃんに注意をした。 別に仲間外れにしたり、無視したわけじゃないのに! 完全体に思えたふたりの関係が侵入者によって破壊された衝撃、悲しみは6、7歳のわたしの世界を真っ暗にした。 あれからどうなったんだろう、あんまり覚えてないな。 でもそのとき「友だちって強制されるもの?」って疑問に、先生は納得いく答えを返してくれなかった。 転校してからの2年間の小学校生活はそれなりに友だちもできたけどなんだか違和感しかなかった。 なにもしてないのにいじられるようになったり、にこにこつきまとってきてた子が悪口言ってるの聞いちゃったりして。 その頃から友だちというものが、完全なるもの、一体化できるものじゃなくなった気がする。 そう感じ始めてから人間関係でうまくいかなくなると何も言わずに距離をとるっていうことをときどきするようになった。 何度か先生から呼び出しを受けて、強制的に「一緒にいなさい、友だちでしょ?」って注意された。 相手の気持ちを考えたら、なんて自己中で上から目線なんだって思うけど 「なんでいやなのに一緒にいなきゃいけないんだ!!」と当時はいやでいやで仕方なかったな。 そんな感じだったから、あんまり幼少期から小学校、中学校までの今でも会っている友だちってわたしにはごく僅かしかいない。 幼少期の友だちを大事にしている人ってうらやましいなーって思うけど、 鬱屈としていたせいか、我慢して自分を偽っているような感覚があって、なんだかそのまま一緒にいるということにはなれなかった。 佐野洋子さんはこの本の中でこう言っている。 「私はやはり、小学校の時の中国で知り合った友だちと二度と会えなかったということを、ひじょうに残念に思う。生まれた土地で、小さな芽がそのまま大きな木に育つようなことがなかったことを、さびしいと思うことがある。」 「友情とは年月のことである。子どもの時はたがいが遊び道具であっても、年月が人生を教える。私は友だちをわたり歩いて、たくさんの友だちをつくった。年を取ったら一緒に養老院に行こうといい合う友だちも持って、いい友だちを持った幸せを感じるが、静岡へ返って、生まれた土地で、ずっと毎日何十年も友だちやっている同級生を見ると、地面からはえている林のようなうらやましさを感じる」 地元で一緒に生まれ、育った同級生たちが今でも仲良くしている姿をSNSで見たりすると、心がざわざわして、大きな劣等感を感じる。 なにものでもなかったときから一緒にいて、人生のステップをともに歩み、老いていく友だちができなかった自分がなんだか不完全であるような。 だけど同時に激しい抵抗感も生じる。 生まれ育った環境で生きること、コミュニティーに戻ることに対する嫌悪感。 こんなこと言うと地元嫌いなの?とか地元バカにしてるの?って思われるかもしれなけど、そういうことじゃなくて、今でも時々帰りたくもなるし、東京で生きてて地元をバカにされるとムカっともする。 思春期の頃かかえていた閉塞感や、馴染めない自分へのコンプレックスをいまでも解消できていないということなのかな。 あれ、まったくまとまんないな、、、 ...
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友だちについて①

最初に書くと意気込んだはずが、気づけば宣伝にしかつかってないブログに、、、 「上手く書かないと!」って構えすぎたり、人様に見せるってことになんだかブレーキがかかってしまっていたので、 ここからはあんまり上手くなくても、考えてることとか、好きなこととか、はたまた嫌いなこととか あんまり気負わず書こうと思います。 、、、いや、書くんだ!! 映画に関係なく、なにをテーマに書こうかなと考えて、ぱっと思いついたのが「友だち」についてだった。 なので、ここから数回に分けて「友だち」「友情」をテーマに書いてみようと思います。 20代後半「アラサー」と括られる年齢になったころから、 女同士の間であがる最大のテーマは「結婚」や「子ども」についてということは否定しようがないけれど、 時々トピックにあがって結構深く話すようになったテーマとして「友だち」があった。 独身女性と既婚者、特に専業主婦の間では結局友情なんて壊れてしまうとかよく言うし、 実際に知り合いでもいるけれど 仕事も少し安定してきて(私自身はまったく安定してないですが...) 結婚したり、出産したりする年齢に差し掛かったときに、案外簡単に友情が壊れてしまったり はたまたそろりそろりと距離をとってフェードアウトしたり&されたり、 そうかと思えば、数年会ってもいなければ連絡も取っていなかった友人と再会、意気投合して 「あれ、なんでこの娘に連絡とってなかったんだっけ?」なんて過去の記憶を遡ってみたりする。 3年ほど前に、「友だち」って言葉を聞くだけでため息をついてしまうような時期があった。 というのもそのころ、はじめて女同士のマウンティングを目の当たりにして 打ちのめされる機会がちょくちょくあって。 もちろん大なり小なりは幼少期から存在しているけれど、 「あ、今蹴飛ばされて上に乗っかられて、足でぐいぐい沈められてるな」って感覚は 味わったことがなかった。 (これは比喩でもなんでもなくて、身体的にもそう感じるほどの衝撃、イメージがあった…!!) 映画を撮ってたり仕事にする!って夢があったから、 あとはもともとちょっとズレた人として学生時代から扱われることが多かったのもあり きっと同世代の女性よりもマウンティングされる機会を幸運にも(?)避けてこれたんだと思う。 しかし25オーバーになってその波にもさすがに抗えなくなってきた頃、 仕事、収入、結婚や出産はまだしも、彼氏の有無、はたまたその彼の地位や収入であからさまなマウンティングを受けるようになり、 「あれ、なんでわざわざ友だちと会ってこんな落ち込んでるんだっけ、、、?」って疑問がわいてきてしまい 誘いを断ったり、それとなく距離を置いたりすることが多くなった。 ほとほと疲れ果てて「友だちってなんですかね…」と漏らしたとき、当時の職場の先輩(女性)が 一冊の本をくれた。 それが佐野洋子『友だちは無駄である』(ちくま文庫)であった。 友だちってなんだろう? 「友だちというものは無駄な時をともについやすものなのだ。 何もしゃべることなぞなく、ただ石段にすわって、 風に吹かれて何時間もボーっとしたことのある友だち。 失恋した友だちにただふとんをかぶせる事以外何も出来なかった日。 中身が泣いているふとんのそばで、わたしはかつおぶしをかいていた」。 ...
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文章を書くということ

昔から、エッセイが好きだった。 特に吉本ばななや、向田邦子といった女性たちのエッセイ。 もちろん小説も好きだけど、なんだか疲れ果てたときとか フィクションを吸収するには余裕がないときなどは つい手が伸びてしまう。 SNSはリアクションを気にしてしまうからこそ書けないことが多すぎて Day Oneなどのアプリを使ったり、ノートに断片的に書いたりしているけれどこうしてある種一方的なツールで文章を書いてみたいと思っていた。 飽き性なのでいつまで続くのか、どのくらいの頻度で書けるのかわからないけれど 脚本を書いたり、制作活動をしたりする間の箸休めのような それでいて書く訓練のような感じでやっていこうと思う。 最近読んだ、西川美和さんの『映画にまつわるXについて』は 映画を目指す末端にいる人間、そして女として ぐいぐい惹きつけられる、そして僭越ながら深く共感する一冊だった。 ということで、映画のこと、日常のこと、今考えていることなど 誰にも向けず、しかし誰かに届くように やっていこうと思います。   ...
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