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打倒!クソバイザー

ここ数日高熱を出して寝込んでいたのですが、その原因は…...   どうでもいい人にクソバイスを浴びせられたからだ、と勝手に断定しています。   そもそもこの「クソバイス」という言葉、私は知らなかったんですがみなさまご存知でしょうか。 コラムニスト、エッセイストである犬山紙子さんがそのご著書、 『言ってはいけないクソバイス』(ポプラ社)にて編み出した言葉のようです。  ではクソバイスとはいったいなんなのか。     クソバイス:クソみたいなアドバイス     まんまだけど、うまいですね。 わかりやすく、使いやすい。     あなたも言われてor言っていませんか? クソみたいなアドバイス!  クソバイスとは? 求めていないのに繰り出される、クソみたいなアドバイスのこと。 相手のためを思って言っているようで、実は上から目線で持論を押し付けているだけのことが多い。 なお、クソバイスすると大変気持ちが良い。 「仕事ばかりしてると婚期逃すよ」 「本当の恋したことないんでしょ? だから彼氏と長続きしないんだよ」 「え? 男なのに軽(自動車)乗ってるの?」 「若いんだからもっと何事にも積極的になりなさい」 男女間で、女同士で、職場や学校や家族内で…… どんな関係性でも発生しうるクソバイス。 引用:Amazon 『言ってはいけないクソバイス』内容紹介   あるよね。まーあるよね。週3回くらいは受けているような気がする。 20代から30代の女性は特に言われやすい立場でもあることも事実かと思います。 私の実経験上、クソバイザーは40代以上の中年男性にもっとも多いかと思うのですが、 彼らが標的にしやすいのがまさに社会人になったばかり~30代の女性。   逆にここに書いてあるような女性が言うようなことは、私はあんまり受けることがないです。 男性の場合、初対面でもあーだこーだとクソバイスしてくることもあるけど、女性の場合はある程度関係性が近づいてからじゃないとそうならない気が。 個人的には女性のほうが用心しやすい、流しやすいのであまり気に留めていないのかもしれません。   クソバイスは、アドバイスの形をとっているからたちが悪い。 だいたいのことは心の中で「余計なお世話だよ」「だまれうざい死ね」もしくは 「そんなこと言ってるからモテないんだよ」と突っ込みたくなることでしょう。   そしてなぜこの人はこんなしょうもないことばっかり言っているのに自信満々なのか、 会って間もない、そしてなんの興味もないこの人になぜ上から目線で言われなきゃいけないのか、 あなたはそんなことをまったく理解もできず、かといって人の言うことにまともにダメージを食らってしまい そのもやもやを翌日まで、ひょっとすると一週間くらい引きずってしまうかもしれません。   実際私もばかまじめにその言葉の暴力にダメージを受けて高熱まで出しました。(と思っている) 人の悪意ってそれだけのパワーがある。   こんなクソバイザーに遭遇したときどうすればいいのか。 そしてクソバイザーをつけあがらせないためにはどうすればいいのだろうか。   友人に相談したところ、 クソバイス返しする ブロックする(近づいてきたら追い返す) 「それクソバイスっていうんですよ」とにっこり笑う ...
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友だちについて③

前回からの続き。 アイキャッチ画像とか、ブログ内での画像とかいろいろ見づらくてごめんなさい、、、!! なんとか調整しようと思っていますが、少し時間かかるのでしんぼうして読んでもらえたらありがたいです、、、! できればPCで、スマホの場合は縦横スクロールすればなんとか見れるのでしばらく自力でよろしくお願いしますq:  しかし自分の過去を遡るっていうのも慣れないとなかなか難しいもんだなあ。 昨年から子どもが主人公の脚本を書いていたので、自分の幼少期を振り返り、どんなことがあって、どんなふうに見えて、どんな気持ちになったか、細かく思い出すという作業を重ねていました。 それはなかなかに苦しくて、毎晩殺されたり殺したりという悪夢を見続けた期間も。。。 もちろん楽しかった思い出もたくさんあるけど、そんな記憶もセンチメンタルな色合いを持って思い出されたり、 幼少期って思い出そうとするとわたしにとってはなんだか胸がズキズキすることのほうが多いです。 脚本の内容的なものもあるんだろうけど。  その脚本を一応(これからも改稿作業は続くので……)書き終えた直後くらいに、『ヴェルニ』で主演のえり役として出演していただいた田村愛さんとふたりでお茶をしながらお話する機会がありました! 愛さんは数年前にご結婚された後、"鳥本愛"さんとしてコーチングの活動もしているのですが... ブログ http://ameblo.jp/kira-ring710/  これまでは作品を通してのお話はしても、コーチングの活動をスタートされてからゆっくりふたりきりで個人的なお話をする機会ははじめてでした。 コーチングを受けたわけではなくお茶しながらお互いのことを話しただけなんだけど、全力で受け入れてもらえてる……!!というふだんなかなか味わうことのできないような感覚でお話をすることができて、自分が目を背けてきたコンプレックスに気付いたり、血流もよくなったんじゃないか……!?と感じるくらいの(笑)短い時間でたくさんの発見がありました。  なかなか周囲にはそんなことできる人いないかもしれないですが、一度足を止めて、人と対話して自分を幼少期からさかのぼって見つめるという機会をつくるのもおすすめです。  そうやって振り返ってみても、恋愛はわかりやすくあーなってこーなってってあるけど、友だちって終わり方もだいたいは環境の変化や、なんとなーく時とともにフェードアウトしていくことが多いからあんまりはっきり思い出せなかったりして。 高校生になって、髪染めてピアス開けて、「パンツ見せたいの!?」って怒られるくらいスカート短くして、念願だった軽音楽部に入って、成績なんて気にしなくなったせいか、中学のときよりは無理しなくなって、いじられるのは変わらずだったけど、たくさん友だちができた。 何時間でもバカみたいにしゃべって、失恋したら一緒に泣いたり、仲良い子が病んじゃったら自分も病んじゃったり、今は笑い話だけどこっぴどい目に一緒に遭ったり、、、学校内でもバイト先でもなんだか友だちってものに全身全霊をかけていた気がするなあ。  さすがに20代も後半になってくると昔よりも気をつかう関係にはなってきてるけど、今もなんだかんだときどき会って、これからも続いていったらいいなーと思うのは、たぶん高校時代の短いようで長かった時間の中で、無駄なことを一緒にして、無駄なこと話して、バカみたいに泣いたり笑ったりした時間があったからなんだろうな。 それがわたしには高校時代だったけど、幼少期の人もいれば、小・中学校の人もいるのは自分にフィットするタイミングみたいなものが人それぞれちがうということなのかな。  大学時代も数は少ないけど友だちはできて、今でもときどきごはん行ったり、高校時代とはちがう温度で、どっちがいいとかいうわけでもなく付き合えているのかなーという感覚がある。 特に寮で一緒に暮らした友だちに対しては、今考えるとぞっとするくらいの自己中な振る舞いしてたにも関わらず、いいことも悪いことも今でも全部受け入れてくれて、その子にはちょっと口にするのも憚られるような出来事も恥ずかしがらずに言えたりする。 映画美学校時代の同期たちはどちらかというと「仲間!」という意識が強くて、「俺たちは仲間であって、友だちとはちょっと違う」なんて話をお酒飲みながらだれかが語り出したりする。 バイト仲間や先輩とは今でもときどき連絡取り合ったり、映画を手伝ってもらったりすることもある。 その人に対してじゃないとこうは話せないって内容とか、空気もある。 そのどこからどこまでが友だちで、どこからどこまでが仲間で、知り合いなのかなんて線引きはほんとうに難しいことだと思う。 なにからなにまで話してなきゃ友だちじゃないとか、 何ヶ月に一回会ってなきゃ友だちじゃないとかそんなことはないわけで、 人生のなかのそれぞれのタイミングや波長で、距離が近づいたり、離れたりする。 ときどき聞くのが 「社会人になって、お互いにメリットないとわざわざ人に会おうとは思わない」 という言葉。正直わたしも思うことはよくある。 人によってその「メリット」という言葉の響きはちがって聞こえる。 わたしにとっては「お金」とか「地位」とかではなくて、たがいに違いがあってもそこを乗り越えて尊重しあえるかとか、ある程度まで正直になれて、そこで共有できるものが「メリット」なのかなーなんて考えている。 もちろんそうじゃなくて本当にわかりやすいメリットがあるから人と会う機会もたくさんある。 仕事関係とか、この人面白そうだなとか、繋がっとくとあとあといいかなーとか。 でもそれは友だちじゃない。少なくともそう思って会っている間には。 本の中でこんな言葉がある。 「友だちというものはお金になるわけでもなく、社会的地位向上に役立つものでもない。もしそのように友人を利用したら、 それは友情とは別のものである。結果として友人があたえてくれるさまざまな目に見えるもの見えないものがあったとしても、決してそれが目的ではない。」 ときどき自分に自信がなくなったとき、「あーでも自分にはこんなにいい友だちいるから捨てたもんじゃないな」って考える。 自己中でどうしようもない人間だけど、でも見放さずに会ってくれたり長電話付き合ってくれたりして、 いつか自分がもっと周りの人にいいこと、いいものを与えられる人間になれたらいいなーって思うけど、 この先つまずいたり、とっちらかったりして迷惑しかかけられなくても、友だちだって言ってくれる人がそばにいてくれる人間でいないとだめだなーとも思う。  「あんまり大切に思っていなかった」友だちがけがをして入院したとき、絶対に死なないで。と涙があふれてきたことに対して佐野さんはこう語っている。 「この人は、私のばかなところ、だめなところ、いやなところ、くだらないところを引き受けてくれていたのだ。この人がいなかったら、私のいやなところ、くだらないところは行き場を失って、私の中にあふれ返って生きてはいけなかったのだ。立派な尊敬にあたいする友人だけを持っていたら、私はなんと貧しい土に生きている生き物だっただろう。二人で過ごしたおびただしい無駄な時の流れ、その無駄を吸い上げて、私たちは生きてきた。」 名文.........!!!!!  友だちとはなにか、その定義は難しいけど考えさせられる一文。  というわけでまとまってないかもしれないけど、佐野洋子さんの『友だちは無駄である』とそれにまつわる考えあれこれに対してはこの名文でしめたいと思います。  気になった方はぜひぽちってみてください。 https://www.amazon.co.jp/友だちは無駄である-ちくま文庫-佐野-洋子/dp/4480423095  『友だちについて』、終わりか?って思ったあなた、残念でした。まだ続きます。  次回は河合隼雄先生の『大人の友情』(朝日文庫・2008)をテーマに。 2冊交えようかとも思ったのですが、ブログ力ゼロの今そんなことすると収集つかなくなるかなと思ったので、ちょっとかぶったり、戻ってみたりする可能性は大だけど、最初いろいろ友だちってなんだよ!!って思った時期のことを回収しつつ、「大人の友情」に焦点をあてて考えてみようと思います。  いやーしかしブログって勉強になるね。今は時間かかり過ぎたわりに大したこと書けてないけど、 もっとおもしろく書けるように精進します......!!実践あるのみ!!!  目指すは『JUNO』の脚本家でアカデミー賞脚本賞受賞のDiablo ...
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友だちについて②

前回からのつづき。 佐野洋子『友だちは無駄である』(ちくま文庫・1988年) 佐野洋子(1938-2010)さんは『100万回生きたねこ』で有名な絵本作家、作家、エッセイスト。 Amazon 『100万回生きたねこ』佐野洋子 この本は佐野洋子に対し「友だち」をテーマに谷川俊太郎がインタビューをするという対談形式がメインを中心に進められている。 谷川俊太郎と結婚してたのが1990〜1996年だから執筆当時はふたりがお付き合いしてたときなのかな〜。 基本的には佐野洋子のお話がメインだけど、ときどき谷川俊太郎のエピソードも交えていて、心地のいい対談がつづく。 最初にこの本を「これあげる」って先輩から渡されたときは、「友だちは無駄である」という題名からして、その先輩も、この作者も、タモリさんみたいに「友だちなんていらない」って姿勢なのかなって思った。 でも内容は180度違ってた。前回紹介した背表紙の言葉。 「友だちというものは無駄な時をともについやすものなのだ。 何もしゃべることなぞなく、ただ石段にすわって、 風に吹かれて何時間もボーっとしたことのある友だち。 失恋した友だちにただふとんをかぶせる事以外何も出来なかった日。 中身が泣いているふとんのそばで、わたしはかつおぶしをかいていた」。 「無駄だから友だちはいらない」のではなく「無駄だからこそ友だちなのだ」という本なのだ。 「いちばんはじめに、だれかをお友だちと思ったとき」まで遡り、兄弟姉妹に対して、幼少期、小学校、中学校、高校、浪人時代、大学、社会人、そして子供が生まれてから現在についての「友だち」についてのエピソードをざっくばらんに語っている。 自分はどうだったかなーと、記憶を遡ってみた。 生まれてから幼稚園までは特に友だちっていう意識なんてたぶんぜんぜんなかった。 同じ団地に住んでた子や、なんとなく幼稚園で一緒だった子と遊んでいたような気がするけどほとんど記憶にない。 兄や妹と遊ぶことが圧倒的に多かったけど「友だち」とは思ったことがなかったから、 記憶にあるいちばん最初の「友だち」は祖父母の家にいた猫たちだったんだと思う。 どうしても仲良くなりたくて、触り方、近づき方の研究を重ねたりして、楽しいことや悲しいことを共有していたのは、いつも猫たちだった。 人間でと条件をつけるなら、いちばん最初によく覚えている友だちは、小学1、2年生のときに一緒にいたみっちゃん。 大好きで、学校も放課後でもいつもふたりで一緒にいた。 ある日それをやっかんだある女の子が、先生に文句を言った 。 そしたら先生は「入れてあげなさい」ってわたしとみっちゃんに注意をした。 別に仲間外れにしたり、無視したわけじゃないのに! 完全体に思えたふたりの関係が侵入者によって破壊された衝撃、悲しみは6、7歳のわたしの世界を真っ暗にした。 あれからどうなったんだろう、あんまり覚えてないな。 でもそのとき「友だちって強制されるもの?」って疑問に、先生は納得いく答えを返してくれなかった。 転校してからの2年間の小学校生活はそれなりに友だちもできたけどなんだか違和感しかなかった。 なにもしてないのにいじられるようになったり、にこにこつきまとってきてた子が悪口言ってるの聞いちゃったりして。 その頃から友だちというものが、完全なるもの、一体化できるものじゃなくなった気がする。 そう感じ始めてから人間関係でうまくいかなくなると何も言わずに距離をとるっていうことをときどきするようになった。 何度か先生から呼び出しを受けて、強制的に「一緒にいなさい、友だちでしょ?」って注意された。 相手の気持ちを考えたら、なんて自己中で上から目線なんだって思うけど 「なんでいやなのに一緒にいなきゃいけないんだ!!」と当時はいやでいやで仕方なかったな。 そんな感じだったから、あんまり幼少期から小学校、中学校までの今でも会っている友だちってわたしにはごく僅かしかいない。 幼少期の友だちを大事にしている人ってうらやましいなーって思うけど、 鬱屈としていたせいか、我慢して自分を偽っているような感覚があって、なんだかそのまま一緒にいるということにはなれなかった。 佐野洋子さんはこの本の中でこう言っている。 「私はやはり、小学校の時の中国で知り合った友だちと二度と会えなかったということを、ひじょうに残念に思う。生まれた土地で、小さな芽がそのまま大きな木に育つようなことがなかったことを、さびしいと思うことがある。」 「友情とは年月のことである。子どもの時はたがいが遊び道具であっても、年月が人生を教える。私は友だちをわたり歩いて、たくさんの友だちをつくった。年を取ったら一緒に養老院に行こうといい合う友だちも持って、いい友だちを持った幸せを感じるが、静岡へ返って、生まれた土地で、ずっと毎日何十年も友だちやっている同級生を見ると、地面からはえている林のようなうらやましさを感じる」 地元で一緒に生まれ、育った同級生たちが今でも仲良くしている姿をSNSで見たりすると、心がざわざわして、大きな劣等感を感じる。 なにものでもなかったときから一緒にいて、人生のステップをともに歩み、老いていく友だちができなかった自分がなんだか不完全であるような。 だけど同時に激しい抵抗感も生じる。 生まれ育った環境で生きること、コミュニティーに戻ることに対する嫌悪感。 こんなこと言うと地元嫌いなの?とか地元バカにしてるの?って思われるかもしれなけど、そういうことじゃなくて、今でも時々帰りたくもなるし、東京で生きてて地元をバカにされるとムカっともする。 思春期の頃かかえていた閉塞感や、馴染めない自分へのコンプレックスをいまでも解消できていないということなのかな。 あれ、まったくまとまんないな、、、 ...
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友だちについて①

最初に書くと意気込んだはずが、気づけば宣伝にしかつかってないブログに、、、 「上手く書かないと!」って構えすぎたり、人様に見せるってことになんだかブレーキがかかってしまっていたので、 ここからはあんまり上手くなくても、考えてることとか、好きなこととか、はたまた嫌いなこととか あんまり気負わず書こうと思います。 、、、いや、書くんだ!! 映画に関係なく、なにをテーマに書こうかなと考えて、ぱっと思いついたのが「友だち」についてだった。 なので、ここから数回に分けて「友だち」「友情」をテーマに書いてみようと思います。 20代後半「アラサー」と括られる年齢になったころから、 女同士の間であがる最大のテーマは「結婚」や「子ども」についてということは否定しようがないけれど、 時々トピックにあがって結構深く話すようになったテーマとして「友だち」があった。 独身女性と既婚者、特に専業主婦の間では結局友情なんて壊れてしまうとかよく言うし、 実際に知り合いでもいるけれど 仕事も少し安定してきて(私自身はまったく安定してないですが...) 結婚したり、出産したりする年齢に差し掛かったときに、案外簡単に友情が壊れてしまったり はたまたそろりそろりと距離をとってフェードアウトしたり&されたり、 そうかと思えば、数年会ってもいなければ連絡も取っていなかった友人と再会、意気投合して 「あれ、なんでこの娘に連絡とってなかったんだっけ?」なんて過去の記憶を遡ってみたりする。 3年ほど前に、「友だち」って言葉を聞くだけでため息をついてしまうような時期があった。 というのもそのころ、はじめて女同士のマウンティングを目の当たりにして 打ちのめされる機会がちょくちょくあって。 もちろん大なり小なりは幼少期から存在しているけれど、 「あ、今蹴飛ばされて上に乗っかられて、足でぐいぐい沈められてるな」って感覚は 味わったことがなかった。 (これは比喩でもなんでもなくて、身体的にもそう感じるほどの衝撃、イメージがあった…!!) 映画を撮ってたり仕事にする!って夢があったから、 あとはもともとちょっとズレた人として学生時代から扱われることが多かったのもあり きっと同世代の女性よりもマウンティングされる機会を幸運にも(?)避けてこれたんだと思う。 しかし25オーバーになってその波にもさすがに抗えなくなってきた頃、 仕事、収入、結婚や出産はまだしも、彼氏の有無、はたまたその彼の地位や収入であからさまなマウンティングを受けるようになり、 「あれ、なんでわざわざ友だちと会ってこんな落ち込んでるんだっけ、、、?」って疑問がわいてきてしまい 誘いを断ったり、それとなく距離を置いたりすることが多くなった。 ほとほと疲れ果てて「友だちってなんですかね…」と漏らしたとき、当時の職場の先輩(女性)が 一冊の本をくれた。 それが佐野洋子『友だちは無駄である』(ちくま文庫)であった。 友だちってなんだろう? 「友だちというものは無駄な時をともについやすものなのだ。 何もしゃべることなぞなく、ただ石段にすわって、 風に吹かれて何時間もボーっとしたことのある友だち。 失恋した友だちにただふとんをかぶせる事以外何も出来なかった日。 中身が泣いているふとんのそばで、わたしはかつおぶしをかいていた」。 ...
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文章を書くということ

昔から、エッセイが好きだった。 特に吉本ばななや、向田邦子といった女性たちのエッセイ。 もちろん小説も好きだけど、なんだか疲れ果てたときとか フィクションを吸収するには余裕がないときなどは つい手が伸びてしまう。 SNSはリアクションを気にしてしまうからこそ書けないことが多すぎて Day Oneなどのアプリを使ったり、ノートに断片的に書いたりしているけれどこうしてある種一方的なツールで文章を書いてみたいと思っていた。 飽き性なのでいつまで続くのか、どのくらいの頻度で書けるのかわからないけれど 脚本を書いたり、制作活動をしたりする間の箸休めのような それでいて書く訓練のような感じでやっていこうと思う。 最近読んだ、西川美和さんの『映画にまつわるXについて』は 映画を目指す末端にいる人間、そして女として ぐいぐい惹きつけられる、そして僭越ながら深く共感する一冊だった。 ということで、映画のこと、日常のこと、今考えていることなど 誰にも向けず、しかし誰かに届くように やっていこうと思います。   ...
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