友だちについて②

前回からのつづき。
佐野洋子『友だちは無駄である』(ちくま文庫・1988年)
佐野洋子(1938-2010)さんは『100万回生きたねこ』で有名な絵本作家、作家、エッセイスト。
Amazon 『100万回生きたねこ』佐野洋子
この本は佐野洋子に対し「友だち」をテーマに谷川俊太郎がインタビューをするという対談形式がメインを中心に進められている。
谷川俊太郎と結婚してたのが1990〜1996年だから執筆当時はふたりがお付き合いしてたときなのかな〜。
基本的には佐野洋子のお話がメインだけど、ときどき谷川俊太郎のエピソードも交えていて、心地のいい対談がつづく。

最初にこの本を「これあげる」って先輩から渡されたときは、「友だちは無駄である」という題名からして、その先輩も、この作者も、タモリさんみたいに「友だちなんていらない」って姿勢なのかなって思った。 でも内容は180度違ってた。前回紹介した背表紙の言葉。

「友だちというものは無駄な時をともについやすものなのだ。 何もしゃべることなぞなく、ただ石段にすわって、 風に吹かれて何時間もボーっとしたことのある友だち。 失恋した友だちにただふとんをかぶせる事以外何も出来なかった日。 中身が泣いているふとんのそばで、わたしはかつおぶしをかいていた」。

「無駄だから友だちはいらない」のではなく「無駄だからこそ友だちなのだ」という本なのだ。

「いちばんはじめに、だれかをお友だちと思ったとき」まで遡り、兄弟姉妹に対して、幼少期、小学校、中学校、高校、浪人時代、大学、社会人、そして子供が生まれてから現在についての「友だち」についてのエピソードをざっくばらんに語っている。
自分はどうだったかなーと、記憶を遡ってみた。
生まれてから幼稚園までは特に友だちっていう意識なんてたぶんぜんぜんなかった。
同じ団地に住んでた子や、なんとなく幼稚園で一緒だった子と遊んでいたような気がするけどほとんど記憶にない。
兄や妹と遊ぶことが圧倒的に多かったけど「友だち」とは思ったことがなかったから、 記憶にあるいちばん最初の「友だち」は祖父母の家にいた猫たちだったんだと思う。
どうしても仲良くなりたくて、触り方、近づき方の研究を重ねたりして、楽しいことや悲しいことを共有していたのは、いつも猫たちだった。
人間でと条件をつけるなら、いちばん最初によく覚えている友だちは、小学1、2年生のときに一緒にいたみっちゃん。
大好きで、学校も放課後でもいつもふたりで一緒にいた。 ある日それをやっかんだある女の子が、先生に文句を言った 。 そしたら先生は「入れてあげなさい」ってわたしとみっちゃんに注意をした。
別に仲間外れにしたり、無視したわけじゃないのに! 完全体に思えたふたりの関係が侵入者によって破壊された衝撃、悲しみは6、7歳のわたしの世界を真っ暗にした。
あれからどうなったんだろう、あんまり覚えてないな。
でもそのとき「友だちって強制されるもの?」って疑問に、先生は納得いく答えを返してくれなかった。
転校してからの2年間の小学校生活はそれなりに友だちもできたけどなんだか違和感しかなかった。
なにもしてないのにいじられるようになったり、にこにこつきまとってきてた子が悪口言ってるの聞いちゃったりして。
その頃から友だちというものが、完全なるもの、一体化できるものじゃなくなった気がする。
そう感じ始めてから人間関係でうまくいかなくなると何も言わずに距離をとるっていうことをときどきするようになった。
何度か先生から呼び出しを受けて、強制的に「一緒にいなさい、友だちでしょ?」って注意された。
相手の気持ちを考えたら、なんて自己中で上から目線なんだって思うけど 「なんでいやなのに一緒にいなきゃいけないんだ!!」と当時はいやでいやで仕方なかったな。
そんな感じだったから、あんまり幼少期から小学校、中学校までの今でも会っている友だちってわたしにはごく僅かしかいない。
幼少期の友だちを大事にしている人ってうらやましいなーって思うけど、 鬱屈としていたせいか、我慢して自分を偽っているような感覚があって、なんだかそのまま一緒にいるということにはなれなかった。

佐野洋子さんはこの本の中でこう言っている。

「私はやはり、小学校の時の中国で知り合った友だちと二度と会えなかったということを、ひじょうに残念に思う。生まれた土地で、小さな芽がそのまま大きな木に育つようなことがなかったことを、さびしいと思うことがある。」

「友情とは年月のことである。子どもの時はたがいが遊び道具であっても、年月が人生を教える。私は友だちをわたり歩いて、たくさんの友だちをつくった。年を取ったら一緒に養老院に行こうといい合う友だちも持って、いい友だちを持った幸せを感じるが、静岡へ返って、生まれた土地で、ずっと毎日何十年も友だちやっている同級生を見ると、地面からはえている林のようなうらやましさを感じる」

地元で一緒に生まれ、育った同級生たちが今でも仲良くしている姿をSNSで見たりすると、心がざわざわして、大きな劣等感を感じる。

なにものでもなかったときから一緒にいて、人生のステップをともに歩み、老いていく友だちができなかった自分がなんだか不完全であるような。
だけど同時に激しい抵抗感も生じる。
生まれ育った環境で生きること、コミュニティーに戻ることに対する嫌悪感。
こんなこと言うと地元嫌いなの?とか地元バカにしてるの?って思われるかもしれなけど、そういうことじゃなくて、今でも時々帰りたくもなるし、東京で生きてて地元をバカにされるとムカっともする。
思春期の頃かかえていた閉塞感や、馴染めない自分へのコンプレックスをいまでも解消できていないということなのかな。
あれ、まったくまとまんないな、、、 テーマが大きすぎるのかな。。
この本もわりかしざっくばらんとしてるし、ま、いっか!笑

気になった方はぜひお手にとってみてください。

つづく。

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